披露宴はおよそ12時半ぐらいに始まりました。
場所は、J.J. Seafood Restaurant というレストランだったと思います。
もうみんなお腹ペコペコです。
といっても、私と妻はレストランに入れません。皆さんが席に着くのを外で待っていました。
司会者の合図とともに、また楽団の演奏です。披露宴会場に入っていきました。
150人分の席はあるものの、120人もいないかもしれません。
私と妻が座るところは、ステージの上の中央でした。
ステージの上には妻の両親と私の両親、そして特別な計らいで妹も座っていました。
人間誰しも一生に一度くらい、主演になれるときがあるものです。
まったく恥ずかしい限りですが、そういうときは素直に演じなければね。
ステージのすぐ下には後見人の人が6人座っていました。
他の席は、15?18人座る丸テーブルが8つあります。座る席は予め決まっているわけではなく、適当です。
後見人の席の左側にマイクがあり、右側にウェディングケーキが飾ってありました。
ケーキは2段で、高さが30cmぐらいのものです。白いクリームにピンク色の飾りがたくさんありました。そしてケーキの横には、後見人やゲストの方が持ってきたプレゼントかありました。グラスや皿、ボール、フライパンなどがありました。ここは現金の贈り物はせず、プレゼントで祝うそうです。うれしい、けれど、日本に持って返れない。いただいたプレゼントは感謝を伝えたうえで、妻の親族で分けることになりました。
料理はステージの上の席と後見人の席のところが少し良いものが並んでいるようで、他の丸テーブルの席にもいろいろあるようです。飲み物はビールかソフトドリンクの飲み放題だったと思います。あちこちで、ビールが足りないぞぉと言っているようでした。
司会者がマイクをとって、披露宴が始まりました。
司会者がいろいろ話をした上で、私に挨拶をするようにいいました。
前日に用意した英語の原稿を読み上げます。
英語でスピーチなんて、しゃれたことはできませんので、今日の結婚式が成功したことの御礼と私たち夫婦の出会いのいきさつと、これからのことを簡単に述べました。ぜんぜんフィリピンの言葉を話せませんが、妻から教えてもらったビサヤ語の挨拶をつけたら、とても喜んでもらえました。
次に妻の挨拶でした。
ウェディングドレスを引きずるようにステージから降りてきました。全部ビサヤ語でしたが、落ち着いてはっきりとしゃべっていました。よく考えると、結婚を決断して、日本に一人でやってくるというのは、なかなか気が強いたいへんな人と結婚してしまったんだと思います。
あと私の両親が話します。
結婚式の前夜は寝るのは遅かった。しかし朝6時に起きた。
結婚式は11時なのにいろいろやることがある。
軽くホテルのレストランで朝食を済ませると、7時から準備だ。
おかまの美容師2人がホテルにやってきた。
どちらかというとおじさんタイプなので、ちょっと気持ち悪い気がするが、腕はいいようだ。
妻のヘアセットとメーキャップを始める。丁寧に丁寧に1時間ぐらいかかった。
メーキャップが終わると、まったく別人のように見える。肌の色が白くなって、丸顔が細長くなり、清楚な感じがする。そしてウェディングドレスを着る。
私は髪を上げて、フィリピンのバロンタガログという半透明のシャツを着て、下は黒いズボンだ。靴は革靴。とてもシンプル。バロン・タガログを訳せば、「フィリピン男爵」か!?暑いフィリピンで着る正装を考えたのかもしれない。
妻の親族もホテルにやってきた。チャーターしてジープニー1台にみんな乗ってきた。
既に衣装も着ている。フラワーガールやリングベアラーが、5歳の姪がやっていてとてもかわいい。お見せしたいがスキャナーがないので、ここに載せることはできない、残念。
彼女たちも、おかまの美容師にメイクをしてもらう。
そうこうしているうちに、9時になってしまった。
あと2時間。
ここから私と妻は先に教会へ行くことになった。
やはりチャーターしておいた、マツダのカペラのような車がきていた。車のことは良く知らないが15年くらい経っている中古車。妻と2人で乗ろうとすると、司会者の方に止められた。ここにも司会者が様子を見に来ていた。
まず私が1人で教会へ行くらしい。
誰が私の両親を空港へ迎えにいくの?とみんなに聞いてみると、妻の一番上のお兄さん(ロミオ)が迎えに行くという。
私は前日に画用紙に書いておいた案内板を、お兄さんに渡して託した。
そして、結婚式のビデオは2番目のお兄さん(バレンティン)にお願いして、カメラは2番目のお兄さんの妻(ヘレン)に託した。前々日に既に彼らにお願いしていて、練習も簡単に行った。私が撮影するわけにはいかないので、あとは任せるしかない。
車に一人で乗って教会へ行く。
一度車は戻って、ウェディングドレスを着た妻が車に乗ってきた。
そして、ジープニーで妻の親族がやってきた。
妻のお姉さん(アデレイダ)が気を利かして、カペラに乗って空港へ行った。私の家族を迎えにいってくれるらしい。
私と妻は、司会者と話す。
結婚前に懺悔をしなさいということだ。神父さんがやってきて、私はカトリック教徒ではないので必要はないといった。私は懺悔のしかたを知らないのでほっとした。妻はウェディングドレスを着たまま、奥の懺悔室へ入っていった。
私よりも元気そうなもうすぐ69歳になる父に手伝ってもらいました。
母にトヨタのRAUMを借りて、自宅から25年間使っていた事務机と「社長」イスを運び、あとはコンピューター関係の雑誌や書籍を箱につめました。
他の事務所は新しい机やマットを入れているところもありますが、私のところは何か大学に入学した新入生みたいです。Kさんからは中古の冷蔵庫をいただきまして、Tさんからはガジュマルの鉢植えをお祝いにいただきました。たいへんありがとうございました。
これから新しい局面にいくというすがすがしい気持ちもありますが、家の中から私の荷物がなくなり、うれしいような悲しいような気持ちです。
1994年3月26日は、私は29歳になりました。
この日、両親と妹が名古屋空港からセブへ飛びました。大韓航空の特別機を利用して、何かのツアーだったと思います。1月と少し前に旅行会社とかけあい、セブからタグビラランへの往復の飛行機の予約をしました。ホテルはツアーに含まれますが、セブ島の観光などは全部キャンセルです。1人7万円強だったと思います。
私と妻は、その日は結婚式直前の準備をした。
結婚式の衣装を取りに行く。そして、美容院に持っていく。
言うのを忘れたけれど、美容師に結婚前の化粧と衣装の支度をお願いします。日本と同じですね。
私たち以外の衣装を、妻の妹に渡しにいく。妻の妹は、妻のお父さんの会社で働いている。
会社と言っても、雨がしのげるぐらいの掘っ立て小屋のペンキ屋にいる。
午後は、教会で結婚式のリハーサル。
神父さんとは何も話さず、司会者と話した。
明日11時から結婚式が始まるが、最初に誰がどの席に着くかということを確認する。
A4より少し大きな紙に、席の場所にだれが座るか?
正面向かって、左側が新婦側の席。右側が新郎側の席。
まず両親が特別席に座る。
その後ろに、それぞれの後見人3人。
次に、家族。
親戚。
という順番に座っていく。
結婚式の進行も話してくれた。そして結婚式の先制で何をいうかということも。
原稿を見せてくれた。神父がいろいろしゃべったあとに、
“Yes, Father.”
“Yes, Father.”
“Yes, we do.
今日はエイプリルフールですが、これはうそではありませんよ?。
翌日の4/2に書いている(泣)。
結婚式を書こうと思ったんだけれど、それよりも大切なビザのことがある。
結婚式の滞在期間は6週間である。
なんでこんなに長いのかは前述したけれど、フィリピンの結婚制度をフィリピン人のように当てはめたら、1ヶ月かかった。妻の親族には外国人と結婚したケースはなかったので誰も外国人と結婚する事情を良く知らない。同じ部落にもいなかった。こういうことは結構まれなんだけれどね。
だから妻と結婚する前には、妻のお母さんが娘に対して「日本大使館へいってらっしゃい。夫がやくざかどうか尋ねてきなさい。」という。フィリピン人は日本人に対してまず、「やくざか?」と思うようだ。フィリピン人は、日本へ行くとやくざにだまされてひどい目にあうと思っているようだ。
**
観光ビザ**
日本人はフィリピンへ行くときは、ビザがいる。ただ観光でいくならば、3週間はビザはいらない。
今回の渡航はあわただしかったので、東京や大阪にあるフィリピン大使館でビザをとらずにフィリピンへ行って、滞在中にビザを延長することにした。
フィリピン国内でビザを延長できたのは、マニラとセブとダバオの3都市だけだった。
(いまはもっと増えたかもしれない。)
結婚の準備を2週間ほどかかったあとは、2人でセブへ行った。
婚前旅行だが、まあ許されるだろう。
スーパーキャットという名前の高速船で、タグビラランからセブまで1時間半ぐらいでいける。この船ができる前は、6時間ぐらいかかった。その時間を節約するため、セブからボホールで一番セブに近い街トゥビゴン(Tubigon)まで船で2時間半くらいで行き、そこからバスで1時間ぐらいというルートが多かったが、この高速船ができてからは廃れてしまっただろうな。実は、セブからタグビラランまで飛行機で30分、実質プロペラ飛行機に乗っているのは15分というのもありました。1500円也。
↓良い地図と案内があったので、紹介しておきます。
http://cozumelun.fc2web.com/02bohol.html
セブはビザを取るためなので、2泊の予定です。ボホールに比べたらセブは都会です。
妻にとっては同じ言葉を話すところで、気楽です。セブとボホールは同じビサヤ方言を話します。他にミンダナオ島の北部とレイテ島の一部でしょうか?他では方言が違って通じません。共通の単語もありますが、まず通じないみたいです。フィリピンでは部族によって言葉が異なるため、おそらく日本よりも言語の種類は多いようです。数字だって、ビサヤ方言はスペイン語を借用していますが、タガログ語は独自のものですから。
セブのイミグレーションを探していきました。
中央政府の建物の一室がイミグレーションで、おじさんが2人いました。
ビザの申請とは別に、興味本位で「どこで会ったの?」「日本ではどんな仕事?」「へー結婚するんだ、結婚式へ招待してくれるか?」と冗談とも本気ともとれるようなことを言います。答えに窮していると、「はいビザ」700ペソ。当時のレートでたしか3000円弱だったと思います。
ビザは最初に21日に、38日分追加して、59日までの観光ビザとなりました。
その後、妻はサントニーニョを見たいというので、サントニーニョ教会へ行きました。
フィリピンのビサヤ地方だけだそうですが、イエスの幼児とされる「子どものイエス」の偶像崇拝しています。各家庭にはこのセントニーニョ(スペイン語で「神聖な男の子」という意味だそうです。エルニーニニョと同じ語源ですね)の像が、大切に祭られています。
今日で年度が変わるが、身の回りがなんか大きく変わる感じがします。
娘と息子が2人学校へ行きました。
小学校4年の娘の担任の先生が他の学校へ行くそうです。
娘と友達2人が、おにぎりをもって小学校へ行きました。
先生と一緒に昼食をとって、いろいろお話ができたそうです。つい先日の終業式が終わった後も、有志で花を買ってもっていったそうです。先生はどちらも喜んで、逆にケーキを買ってもらったり、雑談をして楽しんだそうです。
小学校1年の息子には担任の先生はずいぶん悩まされたと思います。昨日の朝刊で先生が退職されることを知りました。先生にお別れの手紙でも出したらと言ったら、がんばって書きました。今日の午前中に小学校に行ったところ先生はいなかったので、そのまま帰ってきました。「他の先生に渡しておけばよかったのに」というと、「先生に会いたかったから」と答えました。昼食の後に、遊びに行く前にもう一度小学校へ行きました。学校に行ったところ、先生は教室で掃除をされており、先生に手紙を渡すことができたとのことです。そして、先生に他の子どもの忘れ物を届けて欲しいと頼まれごとを言われて、ちゃんとできたとのことです。
そしてカウンセラーの先生も退職されます。
この1年、息子の件で本当にお世話になりました。退職された後も幸あらんことを。
私自身よりもずっとやさしい子どもたちで、うれしかった。
さて私自身。
この1週間、ずっとIPA未踏プロジェクトの応募書類を書いていました。
ネタは半年ぐらい前からあがっていたものを、少しでも良いものにしようと知恵を振り絞っていました。書いても書いても、いいものができません。書いては消し、書いては消しというのを何度も繰り返しました。たったA4で10枚の応募書類なのですが、けっして満足できません。
これまでの応募でパスしたものを調べて、プロジェクトの中身だけでなく、タイトル名や金額にこだわりました。ずっと考え込んでいたり、集中したり、あっちこっち動いたり、いろいろ状況を変えて、搾り出しました。なんとなく、ぞうきんから水を搾り出すみたい。普通に手でまわすだけではすべての水が出てこないので、ぞうきんを叩いたり、振ったりするような感じです。
まあいまこの瞬間の全力を出し切ったので、すがすがしい気持ちです。たとえ未踏に採用されなくても、開発は続けていくので、大きく進行方向が変わるわけではありませんが。
未踏プロジェクトは、PM(プロジェクトマネージャー)を選んで応募するのですが、これが大学院での研究の担当教官のようです。北野さんと千葉さんを選びました。前者は学生時代のあこがれのAI研究者ですし、千葉さんの周りにはRubyistがたくさんいるようで、影響を受けることもあるでしょうし一緒に何かやれる可能性があるかもしれません。うまくいきますよーに。
それにクライアントの印刷会社のプロジェクトが一区切りがつき、そして来週からは新しいオフィスで仕事。
そろそろ、桜が咲く頃ですね。
これは日本の結婚にはないと思うが、フィリピンでは結婚する男女は結婚セミナーを受講しなくてはならない。これを受講しないと結婚の許可が下りないのだ。
しかも、地方政府のロアイ町役場が実施するものと、カトリックの教会が行うものの両方を受講しなくてはならない。
私は文化的なことで興味を持って、セミナーに臨んだ。
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役場の結婚セミナー**
ロアイ町役場は、役場の一つの部屋にある。
一週間に一回ぐらいあるらしく、最初の結婚申請のときに日時が決定していた。
必ず夫婦で来るようにといわれていた。
指定した日時に行くと、他に参加したカップルは一組だけだった。
20歳ぐらいの男女で、女性は知人の奥さんに似ているような清楚な感じだった。
講師である保健婦が後から部屋に入ってきた。
40代後半の優しい感じの女性だ。手には、ピル(避妊薬)、ペッサリーやコンドームといった避妊具を持ってきている。
残念ながらビサヤ方言のセブアーノ語で、講義が始まる。
私はまったくわからないが、妻から後で尋ねると「普通のこと」ということだった。
妻の「普通のこと」というのは問題だ。
何しろ私と結婚するまでは、男にまったく興味がなかったからだ。
1時間ぐらいで講義は終わり、私たちの結婚申請書に受講済みのスタンプが押された。
私は拍子抜けに終わった。
フィリピンはカトリックなどのキリスト教とイスラム教の国である。そのため、堕胎は法律で禁じられている。出産制限をする避妊薬と避妊具はグレーであるが、性の知識なく赤ちゃんができたというケースはとても多い。父親のいない子どもも多いし、できちゃった結婚はとても多い。私たちを除けば、妻の兄弟全員ができちゃった結婚だ。妻の兄弟によると、避妊薬も避妊具も薬局で自由に手に入るが、あまり好まないそうだ。
カトリック教会の結婚セミナー
これも教会に結婚申請したときに日時を決めていた。
出席は私たちカップルだけだった。
神父さんはまたTシャツとジーンズ姿だったが、教会のすぐ脇のところで始めた。
神父さんは私よりも少し年長の35歳くらい、風貌はボクサーのような感じであるが目が鋭い。
最初に英語かタガログ語か、ビサヤ方言のどれがいいか?と尋ねた。日本語は話せないのでごめんねという。もちろん英語だ。話し方は上品なので、教育を受けているんだなと感じた。
辛いことが続きましたので、結婚のことは明日に順延です。
午前中、半田市へパスポートを取りに行きました。
行きと同じ道を通ったのですが、帰り道に、スピード違反のネズミ捕りにつかまってしまいました。
農道で40km/s制限のところを、62km/sだったそうです。
ずっと考え事をしていたので、実際にスピードがどれだけ出ていたかはわかりません。(>o<") おとなしくつかまりました。 20km/sオーバーは、違反金15,000円、2点減点です。 家族でつつましい生活をしているので、この違反金は大きいです。 ささいな抵抗ですが、認印を持参していたので拇印を押さずに認印で済ませました。 その帰りは、ゆっくりと制限速度を守って、帰宅したのはいうまでもありません。自分の車の後に10台ぐらいつながってしまいましたが。 自宅の近くはスピードを出しやすい環境なので、自動車専用道路は100km/sぐらいは当たり前です。知多の農道も見通しが良いので、80km/sを出そうと思えば出せるくらいです。40km/sオーバーで一発免停にならなかったのが、せめてもの救いです。 たぶん100回以上違反をしてきて、そのうち10回ぐらいヒヤと感じて、そして1/100でつかまったのでしょう。一回あたり150円の違反金と思って、慰めることにします。 -–-–-–-–-–-–-–-–-–-–-–-–-–-–-–-— 自宅に戻って、この違反金は個人事業主の経費になるかどうか調べていました。 答えは、なりません。そのとき、ライセンス保険というものを目にしました。 赤色切符は補償の対象になりませんが、青色切符(駐車違反や30km/sまでのスピード違反、一時停止違反など)は、年会費6000円、入会金2000円を払えば補償してくれるというものです。 ん?、違反金は経費の対象にはならないけれど、保険だったら経費の対象になるじゃない。と思って、入会しようとしました。 その後いろいろ調べたら、これってマルチ商法のやばいものじゃない。 既に個人情報を入れてしまいました。。。。。。。。。。。。。。ア!(*?○?)(?о?*)ホ!! 弱り目にたたり目です。これから、誰かが勝手に名前をかたって借金をしないことを祈ろうかな。 免許証の番号を書いてしまったため、紛失したことにして、再発行してもらおうかな。 みなさん、こんなヘマはしないでくださいね。
結婚手続きが前進したところで、次は結婚式の準備です。
日本と異なり、結婚式場というものがありません。
そのため、結婚式と披露宴の準備はすべて自分たちでやらないといけません。
でも、そんなのは大変なので、結婚式のコンサルタントのような人がいました。
教会から紹介していただいて、タグビラランとロアイの間でタグビララン寄りの町にいる、コンサルタントに会いました。元大学教授で65歳くらいの男性の方です。
ジープニーに乗って、その方の自宅へ行きました。
妻がその人と話しました。ときどき英語を混ぜるものの、やはりビサヤ語がお互いに通じます。どのような結婚式をするか、何人参加するか、予算などを聞いて、結婚式に必要なもの、結婚披露宴に必要なものをリストアップしてくれました。
妻によると、その人はバクラ(おかま)とのことでした。品がよく、やさしい語り口ですが、フィリピンではおかまは隠しませんし、差別もあまりありません。
さあ、リストアップしてくれたものの用意です。
・楽団(結婚式と披露宴で、歌い、演奏してくれる人たちです)
・招待状(印刷屋)
・花嫁衣裳、花婿の衣装、フラワーガール、ベストマンなど結婚式で重要な人たちの人選と衣装(衣装店)
・披露宴会場の手配(レストラン)
料理
ケーキ
ブーケや、その他小物(小物を売っているところ)
・結婚式に呼ぶための、ジープニーや自動車の手配(それぞれの車のオーナー)
・結婚のための後見人の依頼(花婿側3人、花嫁側3人)
まだ他にもあると思うのですが、たくさんあって忘れてしまいました。
日本と異なるのは、すべて別の場所で別の人に注文をしなくてはならないところです。数日かけて、1件1件あたりました。すべて回るのが厳しい場合は、妻の母親や兄弟にお願いしました。
結婚式は教会で行うことになりました。
その後の披露宴は、自宅で行うか、レストランを貸しきって行うかのどちらかです。
フィリピン人の結婚披露宴は、たいていは自宅で行うそうです。
聞くところによれば、自宅で行う場合は、料理人を雇い親族総出で料理の準備をするそうです。
前日までに食材を調達して、朝早くから豚を数匹殺して、レチョン(豚の丸焼き)をつくり、100人分以上の料理を用意するそうです。妻によれば、それはそれでとても大変なことらしいです。しかも披露宴は新婦の家で行うのが普通だそうです。
今日は12年目の結婚記念日ですが、自宅で妻がご馳走をつくってささやかに祝いました。娘が私たちにノートとペンをプレゼントしてくれました。娘には感謝しています。
自分でつくった、楽天日記バックアップソフトを使って、1年前のブログを読んでいました。
誕生日は自分で言っていたのに、結婚記念日はだまっていたみたいです。
ちょっと照れくさいのか、それともどうどうと胸を張る気になれなかったのか、自慢話をするのが嫌だったのか、照れくさかったのか、、あまり自慢話をしても聞く人には気持ちがいいものではないと思います。
だから辛い話も失敗話もなるべくするようにしています。
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結婚までの経緯を簡単に述べます。
妻と知り合ったのは、12年半前の夏1993年8月でした。
それから手紙をやりとりして、1994年1月に妻の実家で再会しました。
フィリピンのボホール島のロアイという街です。
私は「かわいい子」に会いにいくというぐらいの軽い気持ちで行きました。
彼女に会う前に、自分の英語力がそこそこ上がっていて、外国人と初めて英語で気持ちの交流ができたことに感動していました。そこで、たまたまあった「かわいい子」と少し会話をしてみたいなという気持ちぐらいだったのです。
男ですからそこには多少のロマンスもあればいいなと思ったぐらいでしたが、2週間ぐらいの滞在で、彼女と結婚することになってしまいました。この年の4月から大学院の修士過程の社会人入学する予定だったので、結婚はまだ先のことだと思っていたのですが、彼女は本気になっていて、このまま「結婚しない」と言ったら私は彼女の親族に殺されてしまうかもしれない。いやそれよりも彼女の気持ちを大事にするべきだと思ったので、結婚を承諾しました。
一度日本に帰国して、大学院の先生や友人、会社の元同僚にも、「結婚する」と伝えました。みんな電光石火のごとく結婚するなんて、驚いていました。この前大学院に入って研究するといっていたではないか、自分でもわけがわからず、事務的に結婚の準備を進めていました。
両親は意外にも結婚に承諾してくれました。私は風船のように風のおもむくまま、気のむくままふわふわと飛んでいきます。将来はどうなっているかわかりません。私自身に錘をつけたほうが良いかなと思ったかもしれません。
結婚というとラブロマンスなはずですが、事務手続き上の難題がたくさんあったので、それどころではないと思いました。
結婚にあたって、難題がいくつも横たわっていました。
・大学院への受験はパスして、1994年4月から名古屋大学大学院へ入学すること。
・入学するときに、入学金免除と学費免除を申請すること。
・結婚の手続きをすること
・彼女が来日できるかどうかの対策を調べること
・結婚の日程を確定すること
・両親が結婚式に参加できるように、ツアーの準備をすること
・自分のフィリピンへの航空券とお金を用意すること
・妻に結婚準備のお金を事前に渡すこと