Twitter Updates for 2010-12-18
ここ数年になるが、私は「怒らない」ようになった。 あきらめの気持ちか、怒ったところでどうしようもないか、と思ったのかわからないけれども、かぁーときて怒ることはめったにない。息子に対して怒るのも半分ポーズみたいなところもあった。 カチィやイラッとすることはあるけれど、順番を抜かされても「まあいいか」と思ったりする。相手が怒っていても、「なんで怒っているのだろう?一緒に怒ってやらないと調子狂っちゃうかな?」と思うこともあった。 実は「怒る」ほど、がんばって生きていないというせいかもしれない。 その「怒らない」が妻や子どもたちにとっては幸いだったようで、温和な関係を築けてこれたと思う。ただそのとき、「怒る」という感情が自分に対して向かっていた。その当時の自分は、生きる気をなくしたうつ病のような状態で、実は心をずたずたにして危険だったかもしれない。 怒らないこと 2 (役立つ初期仏教法話11)Amazonで購入書評怒ることは生きるものならば誰しもあること。人は生きているだけで苦しいものと書かれている。苦しみもがいていることが「怒る」という行為である。感情を出して「怒る」というだけでなく、イラッとしたこと妬んだこと、心の中でカチンと感じたことなどすべて「怒る」という種類に属する。 「怒る」ということは、自分を破壊することもあるし、人的関係を破壊、しいては社会を破壊することもある危険なことである。しかし、「怒る」ということ自体が「生きる」というエネルギーでもある。生と破壊を矛盾を抱えながら、私たちは生きている。 それならば、「怒る」ことを制御しよう。「怒る」ということは10種類に分けられる。その中には絶対にやってはいけない種類の「怒る」があり、制御しやすい「怒る」もある。 そもそも、「怒る」もとの私たちの自我というものが、あると感じているが、実はないものだ。 瞬間瞬間で連続する自我というものはなく、絶えず変化している。変化しているものは確固たる自我ではない。その存在している錯覚のもとで生まれる「怒る」ということに、どれだけ価値があろうか。 ならば、「ああ、私は怒るという気持ちが生まれつつあるなぁ」と客観的に捉えて御するように、「怒る」を水のように流せば、「怒る」と共存できる。そのうち「怒る」という気持ちが出てくるのさえ、自然の一部と捉えることができれば、きっと悟ることができるんだと思う。 仏教には、無常と慈悲という言葉がある。 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」という方丈記にあるとおり、私たちの「怒る」だけでなく、生きている存在そのものが、無常である。そしてその存在がいつくしみなんだろう。 ちょうど、物質そのものが波のエネルギーであるかのように、存在すると思えば存在するが、存在しないといえば存在しないといえる。さて、そう考えている自我は存在しているのだろうか?そんな哲学的な疑問を沸いてしまう。 では、喜怒哀楽の「喜ぶ」「悲しい」という気持ちは、「怒る」とは別物だろうか?生きるための原動力だろうか?私はそんな気がしてならないが、著者のその考えを知ってみたくなった。
ルサンチマンという漫画をみた。 ルサンチマンという言葉の定義(Wikipeida) ルサンチマン(仏: ressentiment)とは、主に強者に対して、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう。デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールにより確立された哲学上の概念である。この感情は自己欺瞞を含み、嫉妬や羨望に起源がある。フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』(1887年)でこの言葉が利用され、マックス・シェーラーの『道徳構造におけるルサンチマン』で再度とり上げられて、一般的に使われるようになった。 この漫画、デブ・ハゲ・メガネという三重苦で、歳も30を迎え中年になる、素人童貞である男が、ネットでの仮想世界で理想の女性を見つけるというところから話が始まる。 将来、コンピューターが発達してマトリックスで描かれた仮想社会になる可能性が高いと思っている。ルサンチマンでは現実の生活に夢が持てない人が、仮想社会に理想を求める。 イケメンでかっこよくありたい 美しい女性を自分のものにしたい。 お金持ちになりたい。 喧嘩が強く、他の人の頂点にたちたい など、人間の欲望を仮想社会では簡単に実現できる。 (ときに、現実社会での課金が必要だというところは笑ってしまうのだけれど) いままでにない話題で面白かった。 あー、俺もメガネで、、デブに最近なってきた(この冬)、ハゲになってきた。 結婚はしたけれど、単身で東京で仕事をしている。 おや待てよ、妻と家族は名古屋にいる。 いつもは電話で声を聞いているだけだ。 これってバーチャル(仮想)とそっくりじゃないか。 主人公の1人である月子さんと、妻のシチュエーションが似ていて、漫画を読んでいる間にあれっ、自分のことじゃないかと。 仮面をはいだら、どす黒いものが出てきて嫌われてしまうんではないかと、、、、 と思ったこともあったけれど、漫画だから残念ながら底は浅くて深い話の展開がなかった。ただこんな話はこれからたくさん出てくるだろうなぁ。 仮想社会では、物理的法則がなりたたないと思う。 だから顔・形の形状は意味をなさない。なんでも思いのまま。
宇多田ヒカルのコンサートをみた。 午後7時になって、仕事場で、Ustreamにアクセスした。 しばらくすると宇多田ヒカルのコンサートが始まる。 すでに3万人の視聴者がいたので、落ちるかもしれないと思い、低帯域の方に切り替えた。それからは2時間ほど最後までコンサートを見ることができた。 音質はとてもよく音楽番組としては申し分ない。 映像も300Kbpsだったが、H.264かどうかわからないがとても綺麗だった。 あれっ?宇多田ヒカルって、こんなにきれいだったっけ? アップでみる彼女は輝いていた。また素敵な歌声だった。 Twitterと並行しているライブ感があるためか、パソコンの前で観ているということが苦にならない。カメラもズームしたり、いろいろな角度から、テレビのようにいくつものカメラがセットされているんだろう。 音楽は苦手だけれど、2時間のコンサートに圧倒された。 きっと私の親の世代の美空ひばりなんだろうな。 圧倒的な歌唱力と魅せる力。それに引きこまれていく。 結局、仕事をしながらではあるけれど、2時間職場から離れずに見ていた。 最初は周囲で仕事をしている人がいるので、音量を低めにしていた。 人が帰ってからは、音量を大きく。。早めに帰ろうと思ったけれど、9時を過ぎるまでは帰れなかった。 才能のある女性に惹かれる。 見た目の美しさだけでなく、賢さ、パワー、、、 そういえば、彼女のお母さんである藤圭子にも小学生のときから聴いていた。母が好きだったので、ラジオで流れてくる彼女の曲がトラウマのように今でも頭に残る。 「15,16,17と、、、私の人生 暗かった」 藤圭子の写真を見ていると、うちの奥さんは似ているがそれもトラウマなのかな。 久しぶりに感動したコンサートだった。 それを無料で流してくれた、宇多田ヒカルさん、関係者の皆さまありがとう。 CDを買おうかな。そういえば、彼女のアルバムは売上すごかったんだよね。