開発プロジェクトにずぼっと入ってしまいました。
普通の会社員のように、朝8時に起きて(ときには7時に起きて)、満員電車に乗って開発現場へ通っています。仕事というのは波があるので、1時間全然すすまないときは、申し訳ないと思います。しかし、ぐんと伸びて成果をあげたときは、お金をたくさん欲しいと思うときがあります。サラリーマンは、その平均のところを報酬を貰っているんですよね。すっかり忘れてしまいました。
そのためちょっと時間的にも精神的にも余裕がない状態が続いています。まだどうしていこうかわからない状態ですが、このままはまったままでは、いろいろな意味でまずいので、自分の状態を客観的に見れる状態をつくらなくてはと思っています。
フィリピンの姪のことで、少しショックなことがありました。
妻がフィリピンにいるお姉さんから電話を受け取りました。
以前に私がお金を貸してあげた買ったパソコンですが、「どんなパソコンを買ったの?」とみせてくれました。そして少しいじっておりました。その後、私が触ってからパソコンが起動しなくなったという報告を受けました。
問題点は2つ
コンピューターを大学で勉強しているという人が2週間触らなかったの? 専門なのに自分で治せず、私のせいにするの? それに対しての言い訳。
終日は自宅に戻らず学校の寮に泊まっている。自宅にパソコンが置いてあるから触れない 回答はないが、わからない様子。 をいをい、一気に拍子抜けしました。事情はあるにせよ、うちの10歳の娘ですらパソコンを1日4時間ぐらい触っているよ。フィリピンのパソコンはインターネットにつながっていないにせよ、勉強のために使うんだろう。パソコン触らずにどうやって、C/C++の勉強をするんだい?ビルゲイツのように全部頭の中で、シミュレートするのかい?私は寝ていないときは、ほとんどの時間は触っているか、プログラムを考えている。
なんか、違うなぁ。期待の星でもこんなものか、、、、すごい脱力感が襲いました。
昔、ノーベル賞を得たファインマンという物理学者が「ご冗談でしょう、ファインマンさん」という本に書いていました。彼がサバティカル休暇を得て、ブラジルへ物理学を教えに行ったときのことです。ブラジルの学生は、物理の教科書を丸暗記していました。本の内容を鵜呑みにして信じ、法則や公式を丸暗記しただけです。
それはちょっと違うんじゃないの?物理学だよ。
物理って、常識を疑い、自分で法則を導き出すんじゃないの?
コンピューターも同じだよ!言語は自分が使いやすいように作り出すものだよ。決してC/C++の使い方を覚えるものじゃないよ。C/C++は、何かを作り出す道具でしかない。ときと場合によっては、PerlやPythonや、Prologやオリジナルの言語、それがなきゃアセンブリでドンドンやってよ。
すみません、ちょっと疲れてしまいました。
サイラボの8/17放送分の追補です。
楽天の顧客情報漏れる 楽天それ自身ではないけれど、楽天にあるお店が顧客情報をかなり流してしまったようです。各店舗が決済をしたり、顧客管理をするために、データをCSVという形でダウンロードできるようです。それが、世の中に流れてしまったようです。
システム的な問題はなく、人為的な犯罪のようなものです。
コンピューター犯罪は年々巧妙化していきますので、それに対してはいろいろ対応策がとられていきます。しかし、人間のモラルは全然対応策がないですね。毎日のように、いろいろな会社で情報流出しておりますが、個人情報保護法の観点から会社に操作が入ったり、訴えられたりしているのでしょうか?
こうなったら、個人情報はみんな公開しましょう!
ということになったら、やっぱりやばいですかな?
「iTunes Music Store」の国内サービス開始 とうとう8/4より、Appleの音楽配信サービスが始まりましたね。iTunesソフトの使いやすさといい、iPod, iPod Shuffleの普及といい、これが本命のようですね。
ソニーミュージック以外の、レコード会社はこの配信サービスを利用しているようです。これが普及すると、レコード会社のような中抜きは問屋と同じような道をたどっていくかもしれません。プロデューサー能力の高いレコード会社は、プロデューサーとして残っていく、つまり独自で商品を作る会社になっていきます。しかし、ただバンドや歌手を紹介するとこに徹しているところは、中抜きでだめになっていくかもしれません。なにしろ直接商品を消費者に売ることができてしまうのですから。
iTunesは動画配信をサポートしているそうなので、9月に出荷予定のiPod Videoへ音楽のプロモーションビデオ、そして短編映画などが配信されるようになるかもしれません。小さな画面で映画を見るのは辛いですが、語学コンテンツなどが評判を呼ぶかもしれませんね。
アメリカの大学は、すべて電子化へ アメリカの大学でも有力校から蔵書などが電子化されるそうです。TeXやPDFで文書の電子化は準備がすすみ、ハードディスクも大容量で分散化・冗長化すれば消えてしまう可能性も減ると思います。
この目的はGoogleなどの検索エンジンや文書をある程度理解できる(セマンティックス)な検索エンジンを使って、すばやく検索できるものとすることが大切です。それによって曖昧なことからきちんとした検索ができる、つまり人の記憶容量を大きくすることができます。
大学の中でだけとけちなことを言わず、世界中に公開して欲しいと思います。フィリピンの田舎には図書館がなく、雑誌などもあまり売られていません。それがアメリカに情報があれば情報を得る助けになるのですが、だけど結局回線の問題やその意図がなくてダメなんでしょうね。
So-net、「Portable TV」を開始。ダウンロードした動画をPSPでいつでも楽しめる ポータブルゲーム機のPSPは、iPodと張りあうのでしょうか?
仕事場でインド人のプログラマーと仕事をしています。
私もプログラマーという立場で一緒に仕事をしていますが、いろいろなことを話しました。
彼はインドのチャイナイ(昔のマドラス)近郊で生まれ育ったとのことでした。大学まで出ていますが、彼の場合はコンピューターエンジニアの専門的なコースで、普通の大学の学部よりも難しいそうです。大学の学部と大学院の修士課程を足したもので、4年半から5年かかるそうです。その代わりに就職率は抜群によく、ほぼ100%近い卒業生が就職できるそうです。それに比べて普通の学部は劣るので、就職先は劣り、就職率は下がるそうです。
彼がいうには大学卒業までは、朝9時から夕方5時まで学校で勉強づめ、そして家に帰ってきてからも自習や宿題で3時間ほど勉強していたそうです。もう嫌になるけれど、将来のことを考えて勉強していたそうです。
私にとってインド人はよくわからないところがまだあります。浅黒く、目が大きく深く、顔は立体的です。穏やかに話し、気持ちを押さえ気味です。彼の場合は何時間でも集中してコンピューターの画面とにらめっこしています。何か哲学的なことを考えているような感じです。
台湾人や香港人、シンガポール人は、資本主義なので日本人と感覚が近いですが、中国大陸からの中国人はまた別の印象を受けます。自己主張が強く、はっきりとモノを言います。間違っていても言い訳を必ず言います。中華思想が強いのか、自分の考えていることは正しいと思っている感じがします。
フィリピン人は、中国人とインド人の中間のような感じですが、とても明るい感じがします。ほとんどが控えめな感じですが、プライドは高いです。
中国人は独立志向が高いと聞きますが、フィリピン人はそうではないような思います。またインド人も話を聞いた限りでは全然そうは思っていないようです。ステレオタイプで申し訳ありませんが、こんな印象をもっています。
そして日本に技術者を派遣する会社に勤めたので、日本に来て10ヶ月になるのですが、東京で3ヶ月いて、名古屋で9ヶ月、そのうち今の職場で2ヶ月働いているそうです。海外で働くのは大変でしょうが、若いんですからいろいろ学んで吸収できるといいと思います。
プロジェクトに関わって3日ですが、だんだんといろいろなことを学び始めました。サーブレットを初めとするJ2EEのこと、Tomcatのことなど。設定は複雑ですが、だんだんとわかりつつあります。またこのプロジェクトにいつまで関わるかわかりませんが、英語と新しい技術のことを学ぼうと思います。そうはいっても、技術のことよりは、営業活動をしないといけないんですが。。。。
今日は終戦記念日ですが、実は義理の母の誕生日です。
義理の母は1945年8月15日にフィリピンのボホールで生まれました。なんていう日に生まれたんだろう、そしてどんなようすだったんだろうって気になります。ちなみに義理の母はそのことについて別になんとも思っていないようです。
今日も仕事に行きましたが、妻は電話でじっくり話したそうです。
私はどちらかというと、無政府主義の左に傾いている方でした。しかし、歳をとるにつれて、これだけの発展をとげさせてくれた日本の先輩たちに感謝する気持ちが絶えません。また戦争のときに、いろいろな状況にあったにせよ、自分の命を差し出して戦っていた人に礼を言いたいと思います。
安らかに眠ってください。そしていつまでも世界中のみなさんが平和で幸せであるように、心の底から祈っています。
仕事に関わっている人たちは、休日返上と夜遅くまで仕事をされているので申し訳ないが、日曜日は家族のために仕事をしなくてならないので休ませていただく。
結婚してからは夫業そして父親業ということで、平日は会社の仕事を、休日は家の仕事が待っている。だから自分の好きなことをする本当の休みがないまますごしてきた。結婚したら自分のことは捨てないと、うまくいかないかもしれない。結婚して以来、趣味は何ですか?と聞かれたら「家族との団欒や子育て」と答えている。
午前中は、旅の疲れと仕事の疲れが出て寝ていました。午後3時からジャスコイーオンに出かけました。お盆のせいか、人がいっぱいでしたね。遅めに出たので駐車場があってよかったです。子どもはおもちゃ屋のトイザらスでウィンドウショッピング、奥さまはいろいろなお店でウィンドウショッピング、とても安上がりで助かります。お金がなかったり、出かける場所が思いつかなかったら、こういうショッピングモールは助かります。フィリピンのものよりも、綺麗で品揃えが多く良かったです(^^;
ところで昨日私が仕事している一方で、妻と子どもらは近所のイトーヨーカドーにでかけたようでした。息子はムシキング大会で2位になったみたいです。パチパチパチ。
詳しくは、娘のブログにあります。10歳の娘はブログを書いています。
http://sayuri.magnet.ne.jp/blog/10076936.html
仕事初めかな...
今日は土曜日ですが、これからしばらく名古屋で一緒にAIをやっていこうという方から頼まれて、システム開発のプロジェクトに関わることになりました。とりあえず8月いっぱいでプロトタイプの納品をする必要があり、人手が足らず手伝って欲しいと言われました。どのような形でこのプロジェクトに関わるか、手探りで始めていこうと思います。
このプロジェクトに関わっている方は、システム開発の零細なベンチャーやフリーのSEの方が多いようで名古屋で仕事するには参考になるかもしれません。仕事の内容は、Javaのサーバーサイドのシステムですが、スクラップ&ビルド的なところが多いようです。まだ形がはっきりしていないところから、EclipseやTomcatなどこの世界での標準的な開発です。いままで触れる機会がないのでよい勉強になります。EclipseもAIのフロントエンドして活用できる可能性が高いので、この機会にいろいろといじってみようと思います。
また8月は子どもが夏休み中なので、それから逃れるという理由もあります。一緒に遊びたい遊んであげたいという気持ちは山々ですが、それをしてしまうと仕事ができません。家で仕事をする努力はしたのですが、結局集中するために夜中に仕事をせざるをえないということになりがちでした。職場は家とは別に持つ必要はあるかもしれませんね。
とりあえず8月はこの仕事に関わりますが、9月以降はどうなるか決まっていません。私も東京や大阪にも仕事があるので、まだ100%投入できるわけではありません。でも、名古屋で仕事をする場合の人脈を築く機会ができて、少しリスクヘッジできたかなと思います。
この仕事に関わって、思いもよらないことがありました。
インド人のプログラマーが一人いらっしゃるのですが、ランチのときに彼と英語で会話をしていたら、「お前英語ができるな」ということで彼の通訳をしながら彼と一緒に働くことになりました。当初私の勤務形態は中途半端だったのですが、私の処遇ははっきりしたようです。
放浪の旅行で多少の英語を話すことができるようになって、外資系の会社に入って英語を鍛えられました。しかし語学力のセンスのない私は、いつまでたっても英語が上達しませんでした。それでも副作用で、その英語で奥さんを口説いたんですけどね。
お互いになまった英語でどこまで英語の勘を戻せるかわかりませんが、予想もしなかったところで英語を話すことになりました。私の下手な英語でも努力してわかってくれようとしているインド人プログラマーに感謝です。
やっぱり、英語は重要です。
サンマーク出版
1,365円(税込)
ISBN 47631-9539-5
マネーの虎という番組では、泥臭い人生論を語る親父だなと思っていました。でもこの本を読んで、共感を持っています。私が本来思っていたことだけでなく、自分が起業というのを考え始めた頃から読み始めた本や、退職してからのさまざまな活動の中で感じたことがあります。
私は堀之内さん、泥臭いんだけど人間味溢れているし、若いIT起業家と違って、書いている内容に重みを感じます。彼がこの先失敗するかもしれない、それはわからないというところに誠実さを感じます。
成功法則その1 まず、真っ暗闇のどん底にひじをつき、地面の冷たさを知れ
堀之内さんはホームレスから年商100億の社長まで上り詰めた経験を語ってくれています。落ちるところまで落ちてその冷たさを知って、「希望の針穴」を見つければ、あとはそこに向かっていくだけです。最悪の状態を知っても、平穏でおれば、そこからなんとか少しでも抜け出せるでしょう。
私は少し違いますが、インドで全部パスポートもお金も盗まれたときがありました。日本大使館や他の旅行者からお金を借りたりしたこともありましたが、ほとんど何もない状態で一人で、大使館や警察、銀行へ交渉しに50℃近い猛暑の中をインドのデリーの街を1ヶ月歩きとおして、旅行を再会することができました。そんな経験がありますので、たいていのことはまあなんとかなるだろうと思っています。
成功法則その2 プールの水を「とりあえずおちょこで」汲み出しはじめられる人間になれ
これも仕事を選ばずにいること。ただし、夢へ少しでも近づく方向の仕事であればいいのではと思います。まあダメで途中で倒れても、しゃあないなぁと、それはそれで自分の力不足だと思います。もちろん、おちょこの次のひしゃくを探します。できればポンプをどのように用意すればよいか、もっと良い方法がないかを考え続けます。
成功法則その3 まずは「小さな欲」をとことん満たすことから始めよ
私は欲をなくすることをモットーに生きてきたのですが、妻や子どもが欲があるから彼らに任せました。私も多少なりとも、ご飯を食べたいや眠たいなどの欲はあります。今の欲は、名古屋の職場の近いところに引越しができるようにすること。つまり、マンションをキャッシュで買うこと。妻はキャッシュでマンションを買わないと引っ越さないとか。いまの状態では毎日通勤地獄に陥ってしまいそうで。大変ですが、これが身近な夢です。
成功法則その4 「儲け方」でなく、お金の「使い方」を必死に考えよ
政治家みたいですが、その通りだと思います。活きるお金の使い方をすれば、お金は居心地のよい自分のところに戻ってくると思います。活きていればよい循環が生まれると思います。資産を増やすことだけに集中するのではなくて、キャッシュフローの状態のよいままで留まるキャッシュの量を大きくすることが、結果事業を大きくすることですね。
成功法則その5 とにかく「速さ」にこだわり、突風で勝負せよ
熟考しようと思うことが多いのですが、最近は記憶力悪いです。記憶があるうちに判断するようにします。これも問題ないな。間違った判断は、よく考えてもすると思うしね。
成功法則その6 小指の先ほども疑わないくらい信じきれる師匠をもて
これは難しいことだと思います。とことんまで信じて裏切られないメンターを持つことは。
フィリピンから帰ってきて、日本のコンビニで買ったおにぎりで食中毒になりました。シーチキンマヨのおにぎりを4つ買って、娘は2つ食べました。息子は1つを食べて半分を食べないうちに気持ち悪いといいました。私はもったいなかったので、残りの半分を食べました。残った1個は手をつけず冷蔵庫の中に入れました。
息子はしばらくしてベッドに入りましたが、30分くらいたって、「トイレの前で吐いちゃった】と言いました。パジャマは汚れて、床は吐いたものでいっぱいでした。飛行機の中で食べたものを疑ったのですが、発症するにしては時間が経ちすぎていました。たぶん、旅行でつかれたんじゃないかと思っていました。
しかし、一回の吐き気だけでは収まらず、夜の間1時間おきぐらいに起きてきて気持ちが悪いといって、水分補給のためにとった水や胃液を吐いていました。私は夜中の間、ずっと看病することになりました。とはいってもずっとベッドにいるわけにもいかず、たまっていたビデオを見て、息子が起きてきたらそれに対応するという感じでした。私の方もひどくはないのですが、軽い頭痛がしたし、翌朝は泥水のような下痢をしました。娘も私と同じような症状で、軽い頭痛と下痢でした。とはいっても私と娘は比較的元気です。息子は一晩中眠れないようでしたが、まったく身体が動けないというわけでもなく、そのうち直るだろうというぐらいにしか思っていませんでした。
それでも子どものことだから心配で、小児科へ連れて行きました。
もちろん残ったおにぎり1個も持っていきました。医者からは下痢止めと抗生物質をいただくことになりました。そして念のため、息子のお尻を検査しました。後でわかったんですが、大腸菌性食中毒でした。便に血が混じることなく、今ではみんな元気になっています。
おにぎりは賞味期限まであと1日ありますが、保存状況が悪かったんでしょう。そして、旅行づかれのせいもあったんでしょう。コンビニも落ち度はあったと思いますが、普通の状態ではこんなに悪くはなかったかもしれません。実は私はもっとひどいのを経験していますし、今回はそれに比べればまあいいかと思います。
3年前にフィリピンから帰ってくるときでした。
3年前は今回と違ってボホールへその日に飛ぶ便がなくて、香港経由のセブ行きでした。そのため、帰るときは一泊セブに泊まることになりました。日本に帰る前日の夜に、夕食に行くことになってタクシーでセブのショッピングモールへ行きました。
妻と結婚した当初はパスポートやビザなどの書類手続きでマニラで滞在することが何度かありました。そのときよく、ピザハットでピザを食べていました。日本やアメリカと味は変わらずしかも値段は1/3ぐらいなので、よく行っていたのです。
その思い出があったものですから、セブでも久しぶりに子どもを連れてピザハットへ行ったのです。そしてピザを注文して食べました。そして、買える途中にタクシーの中でだんだんと気持ち悪くなり、ホテルに着くとトイレへ行くのに妻と私は争うほどでした。ピザを食べてから1時間ほどでしょうか。それからお互いに30分おきぐらいに、吐いたり、下痢したりしました。胃の中に何も残っていないのに、胃液を吐いたりしました。ほとんど水のようなものを下痢しました。私だけでなく、妻もまったく同じで、ときには同時に、ときには順番にトイレに駆け込んでいました。
そして、一晩中そんな状態でした。頭痛もがんがんするし、おなかも痛いです。トイレに行く間隔に、ベッドで横になるという状況です。こんな状態で帰ることができるか心配でした。幸いなことに、子どもたちはピザを1口か2口しか食べず、まったくそのような症状はありませんでした。不幸中の幸いです。子どもが同じ症状だったら、たぶん救急車に運んでもらったかもしれません。私と妻はつらい状態なのですが、おそらく毒素を全部からだから出し切ったのでしょう。翌日はフラフラですが、下痢は止まり、吐き気もおさまっていました。頭ががんがんしました。何も食べなければ、下痢も吐き気もないような状態でした。
結局、いっさい機内食をとらないまま香港経由で名古屋へ戻ってきました。翌日は少し食べれるようになり、なんとか収まったみたいです。フィリピンから戻ってきて、そのセブのピザハットを訴えることもできませんし、まあ命あってのものだねと思っています。
今回の息子の症状は、それに比べればずっと楽です。私たちはトイレでぜえぜえとしていて、思わず便器の中に顔を突っ込むぐらいの勢いで吐いていたものですから。息子はひどいといっても、げぇっと吐けばあとはベッドで横になれる状態です。
結局は自己管理です。
多少の食中毒でも体力があれば乗り切れますから。。。。
20代で若いときは、同じ時期にインドにいた人はA型肝炎にかかったのに私は平気でした。そのほかに、たいていのところの生水を飲んでも平気でした。仮に下痢をしても2、3日で平気になっていました。しかし今はもうだめです。
妻と結婚した頃、妻の実家の井戸水に慣れようと、がんばって生水を飲んでいたのですが、2週間飲みつづけても下痢は止まりませんでした。それからはフィリピンではミネラルウォーターか煮沸した水だけを飲んでいます。
まだまだ残暑が残ります。
最後は体力なので、体力を温存して、残暑を乗り切りましょう!
前夜までにすべての荷物をカバンに入れて、朝8時頃に家を出ました。家を出る前に、ロアイから義理の母や親族の何人かが来てくれました。空港まで見送ってくれるそうです。
義理の弟に頼んで、近所のバスターミナルからジープニーを呼んでもらうに頼みました。いつもは定期路線を走っていますが、お金を包むとタクシーのように運んでもらえます。タクシーもあるのですが、ここボホールでは絶対数が少なく割高なので、ジープニーの方が荷物も運びやすいしいいですね。空港まで100ペソ(200円)で、私たち家族と見送ってくれる親族を運んでもらえます。20分ぐらいで空港へ着きました。
飛行機の離陸時間は9時50分です。まだ1時間半ぐらいあります。空港には航空券を持っている人しか入ることができません。そのため、一度親族と離れてチェックインすることにしました。こんな田舎空港でも荷物の中身はチェックしてします。X線で確認する機械はありませんが、2人の係官が中身をチェックしました。その後、荷物を預けたところで、一度空港の外に出ました。親族とのお別れです。義理のお母さんは涙もろいので泣いていました。とはいっても、しょっちゅう電話で連絡をとっていますよ。朝8時半ころでもとても暑いので、我々は空港の中のエアコンの部屋へ入り、みなさんとは挨拶して別れることになっていました。親族のうち何人かとは挨拶できなくて残念です。
私たちの乗るフィリピン航空の前に、セブパシフィック航空のA320の飛行機が飛び立ちました。こんな田舎でも1日2?3便の往復があるんですね。空港の外には日本の会社と思われる旅行会社(アサヒトラベル)があります。1時間ぐらい待っていて飽きたので、また空港の外に出ました。すると見送りに来てなかった親族が3人来ていました。一番上の義理の兄と2人目の義理の兄の妻、そして義理の父の妹さんでした。私は妻を呼び出して、再び別れを告げました。本当にフィリピンは、親族の結束は強いですね。暑いのにわざわざ来てくれています。嬉しかったです。
そして9時50分の定時で飛行機は離陸しました。
1時間10分ほどで11時頃着きました。マニラの国内線ターミナルから国際線ターミナルへの移動です。移動は100mくらい距離があり、また1階から2階へ移動します。あいにくエレベーターが故障していて、いったんカートから荷物を降ろして運ぶことになり、移動に15分くらいかかりました。空港は結構厳重でした。建物に入るのに航空券の2回のチェックがあります。そしてゲートへ行くまでにもボディチェックを含め厳重なチェックがありました。
そうして、無事に日本に戻ってきました。
ただ、航空カウンターでチェックインしたとき、何もいわなずにいたら、往復とも席が窓側とは遠い真中の4席でした。子どもがいるから、窓際がいいんですよ!できれば、窓側2席ずつがいいのにな。今度からちゃんと、”Window Side”と言おうっと。実は私は通路側の方が好きなので、家族のことまで考えるのを忘れていました。
空港はすんなりとおって、空港駅から朝倉駅まで15分ぐらい。そして駅まで母にくるまで迎えに来てもらいました。夕食はないので、コンビニでお弁当やおにぎりを買って帰りました。食中毒の話は後日にしようと思います。イタタタタタ。
ところで、今回のフィリピン旅行にかかった費用は、こんな感じです。
航空券代
国際線 中部国際空港(名古屋)⇔ マニラ
約25万円(4人分)
大人1人6万5千円、子ども1人4万8千円に、燃料追加代、保険代が増えて、さらに空港使用料が請求書に入っていました。
国内線 マニラ⇔タグビララン
約4万8千円(4人分)
これは、国際線と一緒に購入した方が8千円ほど安くなりましたね。失敗!
合計30万円
お土産代
フィリピンの親族へ 約5万円
義理の父は6年前に脳梗塞で死亡しました。1942年生まれで57歳でした。その1ヶ月ほど前に、たまたまフィリピンへ帰郷することができたのは不幸中の幸いでした。一度も子どもたちに手をあげたことがないそうで、いつもにこやかな表情をしておりました。死ぬには少し早いですね。フィリピンは温暖な気候ですごしやすいです。たくさんのお年寄りがいます。しかし健康診断は普及していないし、栄養が偏っています。また医療が整っていないので、病状が進行しているのに気付かず、ぽっくり死んでしまうことが多いようです。
義理の父のお兄さんは、少し知恵遅れでしたが、義理の父の家族で一緒に生活しておりました。お父さんが亡くなって4年経った頃、近所の頭のおかしい人に斧で刺されて死にました。その頭のおかしい人は刑務所に入れられて、しばらくしたら自殺したそうです。
妻の家族はみんなカトリック教徒です。とはいっても、日本のカトリックとはミサの進行や細かなことは違うかもしれません。どちらも土着の習慣や宗教と結びついている蚊も知れません。フィリピンでは、サンタ・ニーニョという「キリストの幼子」という天使のような像を崇拝します。セブにそのサンタ・ニーニョを祭っている教会があり、遠くからお参りに来る人が多いです。各家庭に歯、十字架よりはマリア像やサンタ・ニーニョ像を並べています。
こちらでは、人が亡くなってから毎年、回忌法要があります。10年まで続くそうです。その回忌法要には親戚や近所の人が集まって祈りを捧げます。その回忌法要の10日前から毎日お祈りをするそうです。地元の熱心な信者がお祈りの言葉を捧げ、みんながその言葉に続きます。おおよそ30分ぐらい祈りの言葉を捧げるでしょうか?そのお祈りをする人にお布施のようなものを包みますし、またお祈りが終わった後にスナックや飲み物を振舞います。そして回忌法要では、食事を振舞います。そしてもちろん、お墓参りも行います。日本と同じような感じですが、ずいぶんと手間が掛かる感じです。たぶん、お布施の方は10日間で800ペソ(1600円)ぐらいで、スナックや食事もさほどお金をかけていません。だけど人が多いので、結局毎年2万円以上は掛かってしまうようです。
妻の父が亡くなったのは、1999年8月12日の朝方でした。
義理の母が朝食ができたことを大声で呼んでも起きてこないので、様子を見に行ったら、亡くなっていたとのことでした。まだその頃は携帯電話も普及していなかった(固定電話がなかった)ので、その日の夜にお姉さんから国際電話がかかってきました。ちょうどお盆の時期だったので、飛行機の便がとれるかどうか心配でした。その日の電話ではできるだけ早く行くとだけ伝えて、詳細は後で連絡すると伝えました。
そのときは勤めていたので、義理の父が亡くなった場合は3日ぐらい忌引きとして休めました。そして翌日会社に出かけて事情を話し、その日の半日分の休みと忌引き休み、そして足りない分は有給休暇を申請しました。私の妻の家族はフィリピン人であることを知らせていてその事情を取り計らってくれた、日本アイビーエム中部ソリューション株式会社とその上司の阿部さんに感謝します。すぐに旅行代理店に連絡して、一番早くいく飛行機を頼みました。明日のフライトで5日後に戻ってくる便で座席がとれました。お盆の最中ですがキャンセル待ちがあったのでしょうか。すぐにお金を払い込み、航空券は空港渡しでした。また妻とは名古屋駅で待ち合わせて、入国管理局へ行き再入国ビザを取得しました。そのとき幼稚園に通っている娘と1歳に満たない息子は、私の両親に預けました。
そのときはタグビラランへ飛ぶ飛行機便はなく、大阪発セブ行きになりました。その翌日の朝には大阪の関西国際空港へ行き、午後セブへ飛びました。セブには夜着いたのですが、ボホールから弟が迎えに来てくれていました。セブに着いた翌朝高速船でタグビラランへ行き、そこからトライシクル、ジープニーを乗り継いで、ロアイの義理の母の家についたのは10時をまわった頃だった。
義理のお父さんが亡くなってから、4日目にやっと着いたということになる。
フィリピンは土葬である。自宅の広間には祭壇が飾られており、そこに棺桶があった。棺桶の中に死体処理をした、義理の父が横たわっていた。義理の母とは挨拶をしたが、すぐに奥に引っ込んだ。長年連れ添った夫を突然亡くしたのは相当辛いようだ。
日本でいうお通夜や葬式は、フィリピンはどうするんだと妻に尋ねた。お通夜みたいなものは既に済んでいる。葬式は、身内のものがすべてそろったところで行うとのことだ。私たち日本組が一番遅かったので、私たちの到着を待っていたようだった。そして翌日葬式が執り行われることになった。それでも私たちが到着するまで、毎日何度か祈りが行われたようだった。私たちが到着した午後も、お祈りが行われた。
葬式の前の夜に、親族一同や近所の人が集まった。お通夜のようだった。
夜のお祈りの後、食事が振舞われる。そして、ばくちが始まった。
トランプを使って、2ヶ所でばくちが行われる。そこでのショバ代が、葬式の費用の一部になるそうだ。今回の葬式の費用は、フィリピン流にお金を持っている人、つまり私たちが払った。おおよそ15万円ぐらいだったろうか。
翌日の午後に、自宅での最後のお祈りが終わった後に、棺桶を男たちが担いで葬儀車に運んだ。全体が白っぽく作られた、ライトバンにデザインを施した車である。車の助手席には喪主の義理の母が乗る(喪主という言葉があるかどうかわからないが)。その車は歩く速度、時速4kmぐらいでゆっくり走る。そのあとを、親族一同、そして近所の人、また雇った楽団が音楽を奏でながら歩きます。教会まで歩いて1時間くらい掛かります。じめじめっとする暑い日でしたが、正装でぞろぞろ歩きました。私は、日本の夏の正装で歩きました。半そでのシャツと黒いズボンです。ネクタイはしませんでした。
通りを歩いていると、家からみんな出てきました。中には、コインをこちらに投げる人もいました。コインを投げて、それをまた葬式の費用に充てるのが慣わしのようです。私はビデオカメラで、一番前の車から最後尾まで撮影しました。そして、ロアイの教会までたどり着きました。教会の中へ、男たちは棺桶を担いで、最前列に起きました。そして親族や近所の人たちが、教会の席につきました。しばらくすると、神父さんが入場されて、ミサが始まりました。ミサの後に葬式を執り行いました。何を言っているかわからないのですが、荘厳な感じです。
その後、再び棺桶を担いで車に入れ、山の上にある墓場まで行きました。墓場は家の近くにあるので、また1時間近く歩いたことになります。お墓には葬儀屋の人が、地面をセメントで箱のように固めていました。横にまだ乾いていないセメントがあります。棺桶をのそのセメントの箱の中に置きました。親族は最後の別れです。全員が棺桶の窓を開き、義理の父にお別れを言いました。そして葬儀屋が、セメントの箱のふちに塗り、セメントつくった蓋をしました。もうこれで開けることができません。ゆっくりと、義理の父の身体は腐敗していくんでしょうね。
蓋をした後に、花を弔い即席のお祈りを捧げて終わりました。後日、お墓のプレートを一番上の義理の兄がつくると言っておりました。数年後お墓を見ましたが、通常の2倍の大きなプレートを作ってありました。義理の兄の気持ちが伝わります。義理の父、義理の兄弟の仕事は、お墓のプレートをデザインして作る仕事もしています。
明日の午後にセブに戻って、その翌日飛行機で日本へ帰ります。フィリピンではどんな展開になるかわからないので、1日遅れてもよいようにしておきました。そのため、義理の父の死後にどうするかという話し合いをしました。お金を援助してきて、この葬儀費用も全部出した私たち、特に妻の発言権が強かったです。妻は結婚前まで、女子高生にも見える、おとなしいシャイな女性でしたが、強くなりました。子どもを2人産んだせいか、それとも日本での生活のせいか、私と結婚したせいでしょうか?妻自身も取り仕切れる自分に驚いたようです。
妻が音頭をとって決めたことは次のようなことです。
・お父さんの財産は、お母さんが引き継ぐ
・お母さんが亡くなるまで、財産は兄弟で分配しない
・お母さんへの援助は兄弟全員で分担する → 結局は私たちだけが資金援助をしており、他の兄弟は身体で提供するということになっているようです